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姫路城改修工事写真集
姫路城は2009年(平成21年)10月9日から大規模な改修工事「平成の大修理」が行われています。工事期間は2014年(平成26年)まで約5年で、事業費は約28億円だそうです。
<姫路城改修工事写真集>

<姫路城改修工事写真集>
タグ:姫路城改修工事
2010年10月09日
姫路城ランキングベスト3
姫路城のご案内
<姫路城のご案内>
・入城料 大人 400円 5歳〜中学生 100円 団体料金 30人以上 1割引 100人以上 2割引 300人以上 3割引
・姫路城・好古園共通券 大人 560円 小・中学生 200円
・姫路城・博物館・美術館共通券 大人 640円 高校・大学生 560円 小・中学生 240円
※発売状況についてはお問い合わせください。
※共通券以外にも、姫路城の周辺観光にお得な「姫路観光パスポート」があります。
・開城時間 9時〜16時
※毎年4月25日〜8月31日までは、9時〜17時
・休城日 12月29日〜30日
・所在地 姫路市本町68番地[地図]
・お問い合わせ 姫路城管理事務所 電話 079-285-1146 ファクス 079-222-6050
・アクセス JR姫路駅から北へバスで5分、徒歩で15分 駐車場完備(有料)
・入城料 大人 400円 5歳〜中学生 100円 団体料金 30人以上 1割引 100人以上 2割引 300人以上 3割引
・姫路城・好古園共通券 大人 560円 小・中学生 200円
・姫路城・博物館・美術館共通券 大人 640円 高校・大学生 560円 小・中学生 240円
※発売状況についてはお問い合わせください。
※共通券以外にも、姫路城の周辺観光にお得な「姫路観光パスポート」があります。
・開城時間 9時〜16時
※毎年4月25日〜8月31日までは、9時〜17時
・休城日 12月29日〜30日
・所在地 姫路市本町68番地[地図]
・お問い合わせ 姫路城管理事務所 電話 079-285-1146 ファクス 079-222-6050
・アクセス JR姫路駅から北へバスで5分、徒歩で15分 駐車場完備(有料)
タグ:姫路城のご案内
2010年03月26日
姫路城ガイド
<姫路城ガイド>
姫路城は、白漆喰の城壁の美しさから別名、白鷺城(はくろじょう)とも呼ばれる。
姫路城の所在地は、兵庫県姫路市本町68番地(旧:播磨国飾東郡姫路)。
姫路城は、わが国初の世界遺産であり、国の特別史跡であり、日本における近世城郭の代表的な遺構である。
姫路城は、国宝四城(姫路城(白鷺城)・松本城・彦根城・犬山城)の一つでもあり、築城以来の姿をよく残している事もあって、時に「天下の名城」あるいは「日本一の名城」と言われる。
姫路城は、築城以来廃城や戦火の危機を免れてきた事から天守をはじめ多くの建造物が現存し、うち大天守、小天守、渡櫓等8棟が国宝、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に指定されている。また1993年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
姫路城の所在地「姫路市本町68番地」は、日本の番地では皇居の位置する「千代田区千代田1番地」に次ぐ面積を誇る。近代には陸軍歩兵第十連隊が駐屯していた。
姫路城(白鷺城)は、白壁の美しい城であり、時代劇を始めとして映画などのロケが行われる事も多い。しばしば江戸城など他の城の代わりとして撮影されている。
山陽道上の交通の要所・姫路に置かれた姫路城には、江戸時代には池田輝政およびその子・孫以降は親藩松平氏や譜代大名が配置され、さらに西国の外様大名監視のために西国探題が設置された。
(画面のクリックで拡大できます)

姫路城管理事務所: 670-0012 姫路市本町68地
電話 079-285-1146
姫路城は、白漆喰の城壁の美しさから別名、白鷺城(はくろじょう)とも呼ばれる。
姫路城の所在地は、兵庫県姫路市本町68番地(旧:播磨国飾東郡姫路)。
姫路城は、わが国初の世界遺産であり、国の特別史跡であり、日本における近世城郭の代表的な遺構である。
姫路城は、国宝四城(姫路城(白鷺城)・松本城・彦根城・犬山城)の一つでもあり、築城以来の姿をよく残している事もあって、時に「天下の名城」あるいは「日本一の名城」と言われる。
姫路城は、築城以来廃城や戦火の危機を免れてきた事から天守をはじめ多くの建造物が現存し、うち大天守、小天守、渡櫓等8棟が国宝、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に指定されている。また1993年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
姫路城の所在地「姫路市本町68番地」は、日本の番地では皇居の位置する「千代田区千代田1番地」に次ぐ面積を誇る。近代には陸軍歩兵第十連隊が駐屯していた。
姫路城(白鷺城)は、白壁の美しい城であり、時代劇を始めとして映画などのロケが行われる事も多い。しばしば江戸城など他の城の代わりとして撮影されている。
山陽道上の交通の要所・姫路に置かれた姫路城には、江戸時代には池田輝政およびその子・孫以降は親藩松平氏や譜代大名が配置され、さらに西国の外様大名監視のために西国探題が設置された。
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姫路城管理事務所: 670-0012 姫路市本町68地
電話 079-285-1146
2008年10月09日
世界遺産姫路城
姫路城は、1993年(平成5年)、世界遺産(文化遺産)に登録された。
姫路城は、国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) により、1992年9月と1993年4月、登録後の1993年8月に調査が行なわれた。登録にあたり、姫路城は、以下の点が優れていると判断された。
姫路城は、木造建築物として建物の容積と配置が絶妙にバランスが取られ、白漆喰の城壁を持つ優れた美をもっていること。
姫路城は、明治以前の封建制度の象徴であること。
姫路城は、日本の木造建造物として最高のものであること。
登録地域は、中曲輪より内側となっている。さらにその周囲がバッファゾーンとしての指定を受けている。
<姫路城の世界遺産登録基準>
姫路城の世界遺産登録は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。
・ 人類の創造的天才の傑作を表現するもの。
・人類の歴史上重要な時代を例証する、ある形式の建造物、建築物群、技術の集積、または景観の顕著な例。
姫路城は、国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) により、1992年9月と1993年4月、登録後の1993年8月に調査が行なわれた。登録にあたり、姫路城は、以下の点が優れていると判断された。
姫路城は、木造建築物として建物の容積と配置が絶妙にバランスが取られ、白漆喰の城壁を持つ優れた美をもっていること。
姫路城は、明治以前の封建制度の象徴であること。
姫路城は、日本の木造建造物として最高のものであること。
登録地域は、中曲輪より内側となっている。さらにその周囲がバッファゾーンとしての指定を受けている。
<姫路城の世界遺産登録基準>
姫路城の世界遺産登録は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。
・ 人類の創造的天才の傑作を表現するもの。
・人類の歴史上重要な時代を例証する、ある形式の建造物、建築物群、技術の集積、または景観の顕著な例。
姫路城の歴史ガイド
<姫路城の歴史ガイド>
姫路城の築城は南北朝時代、赤松則村(円心)が姫路山上に築いた称名寺をもとに、正平元年(1346年)の赤松貞範による築城説が有力である(築城者の項も参照のこと)。室町時代の嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で赤松氏が没落すると、一時山名氏が入るが、応仁の乱の混乱の中赤松氏に奪還された。
安土桃山時代の16世紀前半、御着城(現在の姫路市御国野町御着)を中心とした赤松支族の小寺氏が播州平野に台頭、その被官であった黒田重隆が城代として姫路城に入った(この時期の築城説もある)。重隆によって居館程度の規模であった姫路城の修築がある程度行われ、姫山の地形を生かした中世城郭となったと考えられている(規模は現在残るものよりもはるかに小さい)。天正元年まで黒田氏が代々城代を勤め、重隆の子職隆、孫の孝高(官兵衛、如水)に伝えられた。ところが、天正4年(1576年)に織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力と中国地方の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立、最終的には織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落した。ただし小寺氏の被官でありつつも早くから秀吉によしみを通じていた黒田孝高はそのまま秀吉に仕える事となった。
天正8年(1580年)、黒田孝高は秀吉に、姫路城を本拠地とするよう薦め居城を献上した。秀吉は、同年4月から翌年3月にかけて行った大改修により姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、さらに天守(三層と伝えられる)を建築した。あわせて城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備した。この際には姫路の北を走っていた山陽道を曲げ、姫路の城下町を通るようにも改めている。
同年10月28日、龍野町に、諸公事役免除の制札を与える。この最初の条文において、『市日之事、如先規罷立事』とあることから、4月における英賀落城の際に、姫路山下に招き入れ市場を建てさせた英賀の百姓や町人達が龍野町に移住したとする説が存在することを、平凡社『日本歴史地名大系』は記している。
天正10年(1582年)6月、秀吉は主君信長を殺害した明智光秀を山崎の戦いで討ち果たし、一気に天下人への地位を駆け上っていく。このため翌天正11年(1583年)には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動、姫路城には弟の羽柴秀長(後の豊臣秀長)が入ったが天正13年(1585年)には大和郡山へと転封、替わって親族の木下家定が入った。
江戸時代の慶長5年(1601年)、家定は備中に2万5千石で転封、代わって池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功で52万石(播磨一国支配)で入城した。輝政によって8年掛かりに及ぶ大改修が行われ、広大な城郭が築かれる事となった。
元和3年(1617年)には、池田氏は跡を継いだ光政が幼少であり、重要地を任せるには不安である事を理由に因幡鳥取へ転封させられ、伊勢桑名から本多忠政が15万石で入城した。元和4年(1618年)には千姫が本多忠刻に嫁いだのを機に西の丸が整備され、全容がほぼ完成した。
要衝姫路の藩主は親藩および譜代大名が務めたが、本多家の後は奥平松平家、越前松平家、榊原家、再度越前松平家、再度本多家、再度榊原家、再々度越前松平家とめまぐるしく入れ替わる。寛延2年(1749年)上野前橋城より酒井氏が入城してようやく藩主家が安定する。しかし、豪壮な姫路城は石高15万石の姫路藩にとっては非常な重荷であり、譜代故の幕府要職も相まって藩の経済を圧迫していた。
姫路城は江戸時代にもたびたび修理が行われてきたが、当時の技術では天守の重量に礎石が耐えられず沈み込んでいくのを食い止める事は難しかった。加えて柱や梁などの変形も激しく、俗謡に『東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか』などと歌われるありさまであった。
幕末期、鳥羽・伏見の戦いにあって姫路城主酒井忠惇は老中として幕府方に属し将軍徳川慶喜と共にあったため、姫路藩も朝敵とされ姫路城は岡山藩と龍野藩の兵1,500人に包囲された。この時、輝政の子孫・池田茂政の率いる岡山藩の部隊が姫路城に向けて数発空砲で威嚇砲撃を行っている。その中に実弾も混じっており、このうち一発が城南西の福中門に命中している。官軍の姫路城総攻撃は不可避と思われたが、摂津国兵庫津の勤王豪商・北風正造が15万両に及ぶ私財を官軍に献上し、それを食い止めた。この間に藩主の留守を預かる家老達は最終的に開城を決定、城明け渡しで官軍と和睦する。こうして姫路城を舞台とした攻防戦は回避され、後年の世界遺産は焼失を逃れた。
明治4年(1871年)に廃藩置県がおこなわれ、さらに1873年(明治6年)の廃城令によって日本の城の多くがもはや不要であるとして破却された。姫路城は競売に付され、城下の米田町に住む個人、神戸某が23円50銭で落札した。城の瓦を売るのが目的であったという。しかし、解体費用がかかりすぎるとの理由で結局そのままにされ、権利も消滅した。その後1927年(昭和2年)、その個人の息子が、姫路城の所有権を主張して訴訟を起こそうとしたと報じた新聞があったが、別の新聞が後日取材したところでは事実無根だという話であったという。
城跡は陣地として好適な場所であった事から、陸軍の部隊は城跡に配置される例が多かった。1874年(明治7年)には姫路城内に歩兵第十連隊が設置された。この際、本城などの三の丸の建物や武蔵野御殿、向屋敷などの数多くの建物が取り壊された。さらに1882年(明治15年)には失火で備前丸を焼失している。
一方で、明治時代初頭の大変革が一段落付いた1877年(明治10年)頃には、日本の城郭を保存しようという動きが見られるようになった。陸軍において建築・修繕を担当していた中村重遠(しげとお)大佐は、1878年(明治11年)に陸軍卿山縣有朋に名古屋城および姫路城の保存を太政官に上申するよう願い出て、ようやく姫路城の修復は第一歩を踏み出した。姫路城の菱の門内側には中村大佐の顕彰碑が残る。だが、肝心の予算はなかなか下りず、陸軍の予算からどうにか捻出された保存費は要求額の半分にも満たないものであった。これによってどうにか応急的な修理を施したもののなおも腐朽は進む一方であり、城下各地の有志達の衆議院への陳情によってようやく1910年(明治43年)、国費9万3千円が支給されて「明治の大修理」が行われた。これも天守の傾きを修正するには費用が足りず、傾きが進行するのを食い止めるに留まった。その後、1919年(大正8年)にも陸軍省が西の丸を修理している。後に第十連隊は岡山へ移転した。
昭和の大修理について触れる前に、姫路城が「不戦の城」とも呼ばれる所以について記す。姫路城は幕末と太平洋戦争の二度の戦禍を免れた事から「不戦の城」と呼ばれる事がある。しかし、実際にはいずれにおいても戦火が間近に近づく危機にさらされている。幕末の危機は先に述べた通りである。
太平洋戦争にあって姫路城の白壁は非常に目立ち、又、陸軍の部隊が置かれていた姫路はアメリカ軍の爆撃対象とされることは明らかであったため、黒く染めた網で城の主要な部分を覆い隠す事とした。しかし、1945年(昭和20年)7月3日の姫路大空襲で姫路城下は灰燼と帰する。城内にも着弾するが本城跡に有った中学校校舎のみが焼失しただけで、西の丸に着弾した2発は不発あるいはすぐに消火された。また大天守にも焼夷弾が直撃したものの、不発だった(2006年7月23日付神戸新聞記事より。当時、不発弾処理にあたった元士官の証言で明らかになった)など、城本体は奇跡的に炎上を免れた(姫路城は貴重な文化財なので爆撃対象とはされなかったという俗説があるが、日本の他の都市の城郭-例えば名古屋城やドイツにおける無差別爆撃では歴史的建造物も容赦なく破壊されたことから、そのような考えはなかったとするのが一般的である(ラングドン・ウォーナーの項、参照)。また、当時のB-29搭乗員は『レーダーから見れば城も輝く点の一つであり、それを歴史的建造物と認識するのは難しい』と回顧している)。翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路城を見て、城下の人々は涙したという。
1928年(昭和3年)に姫路城は史跡指定され、文部省の管理となる(実際の管理は姫路市)。次いで1931年(昭和6年) 天守閣を国宝指定。後に渡櫓等も国宝指定される。ただしこの時点での「国宝」は「旧国宝」と呼ばれるもので、1950年施行の文化財保護法における重要文化財に相当するものである。
昭和の大修理は1934年(昭和9年)、西の丸の渡櫓が豪雨のため石垣もろとも崩壊したのを契機に開始された。全ての建物を一回解体してから部材を修復し、再度組み立て直すという方法がとられる事となった。先に天守以外の建物を手がける事としたが、1944年(昭和19年)太平洋戦争の戦局悪化により中断を余儀なくされる。幸い先述したように空襲の危機を免れ、1950年(昭和25年)に大修理は再開される。1955年(昭和30年)までに天守以外の修理を完了した。
1956年(昭和31年)より天守大修理に着手する事となる。特に天守においては、その全体に巨大な素屋根を掛けて解体・修復工事が行われた。これによって構造物に書き込まれていた様々な文章が発見され、姫路城の研究に大きく役立てられた。一方で基礎は礎石を撤去し(三の丸広場北方にそのままの配置で移動された)、新たに十弁式定盤基礎と称する鉄筋コンクリート製の強固な基礎構造物が姫山の岩盤上に直接構築された。礎石のままでは天守の重量を支えきれないためである。
以前の西心柱(西大柱)天守を解体した時、これを支えていた東西の「心柱」のうち、西の心柱が芯から腐って再利用不能であると判断された。ただちにこれに替わる巨木探しが始まった。兵庫県神崎郡市川町の笠形神社境内の檜が検討されたが、上部に曲がりと根本に腐っている疑いとがあって保留された。1959年になってようやく、岐阜県恵那郡付知町(現中津川市)の山中に最適な檜が発見された。ところが、これは切り出す途中に折れてしまい、その近くで発見されたもう一本は森林鉄道を用いて運搬する途中で、そのあまりの長さ故に折れてしまう。窮余の策として二本目の根本側と笠形神社の檜とを継ぎ合わせて使用される事となった。実は本来の西心柱も二本継ぎで作られており、西心柱は構造上中央部で分割しないと立ち上げ時に先に組み上げられた東心柱に干渉し、狭い作業空間内で正しく組み上げられないのであった。これらの檜は姫路市民総出で大手前通りを祝い引きされ、姫路城内へと運び込まれた。
天守の修理に当たっては、他に重量低減のため特に工夫を加えて焼成された軽量瓦や、耐震補強のための金具類が新たに使用されている。一方で石垣などそのままで差し支えないと判断されたものはほとんど手を加えられていない。天守の修理は1964年(昭和39年)竣工した。
天守の工事費は約5億3,000万円であった。戦前修理分の費用を物価換算して、戦後の費用と合計すれば約10億円(1964年当時の価格)に相当すると考えられている。
1993年(平成5年)、世界遺産(文化遺産)に登録された。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(59番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
<平成の大修理(予定)>
2009年度着工〜2011年度竣工予定。工事費は10億円以上とされる。上記の「昭和の大修理」で50年は持つとされていたが漆喰や木材の劣化が進んだため、大天守の漆喰の塗り替え・瓦の葺き替え・耐震補強を重点に予定されている。工期中は修復作業を見学出来る「見せる修復」も検討中とのこと。(参考記事:ウキペディア)
姫路城の築城は南北朝時代、赤松則村(円心)が姫路山上に築いた称名寺をもとに、正平元年(1346年)の赤松貞範による築城説が有力である(築城者の項も参照のこと)。室町時代の嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で赤松氏が没落すると、一時山名氏が入るが、応仁の乱の混乱の中赤松氏に奪還された。
安土桃山時代の16世紀前半、御着城(現在の姫路市御国野町御着)を中心とした赤松支族の小寺氏が播州平野に台頭、その被官であった黒田重隆が城代として姫路城に入った(この時期の築城説もある)。重隆によって居館程度の規模であった姫路城の修築がある程度行われ、姫山の地形を生かした中世城郭となったと考えられている(規模は現在残るものよりもはるかに小さい)。天正元年まで黒田氏が代々城代を勤め、重隆の子職隆、孫の孝高(官兵衛、如水)に伝えられた。ところが、天正4年(1576年)に織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力と中国地方の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立、最終的には織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落した。ただし小寺氏の被官でありつつも早くから秀吉によしみを通じていた黒田孝高はそのまま秀吉に仕える事となった。
天正8年(1580年)、黒田孝高は秀吉に、姫路城を本拠地とするよう薦め居城を献上した。秀吉は、同年4月から翌年3月にかけて行った大改修により姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、さらに天守(三層と伝えられる)を建築した。あわせて城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備した。この際には姫路の北を走っていた山陽道を曲げ、姫路の城下町を通るようにも改めている。
同年10月28日、龍野町に、諸公事役免除の制札を与える。この最初の条文において、『市日之事、如先規罷立事』とあることから、4月における英賀落城の際に、姫路山下に招き入れ市場を建てさせた英賀の百姓や町人達が龍野町に移住したとする説が存在することを、平凡社『日本歴史地名大系』は記している。
天正10年(1582年)6月、秀吉は主君信長を殺害した明智光秀を山崎の戦いで討ち果たし、一気に天下人への地位を駆け上っていく。このため翌天正11年(1583年)には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動、姫路城には弟の羽柴秀長(後の豊臣秀長)が入ったが天正13年(1585年)には大和郡山へと転封、替わって親族の木下家定が入った。
江戸時代の慶長5年(1601年)、家定は備中に2万5千石で転封、代わって池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功で52万石(播磨一国支配)で入城した。輝政によって8年掛かりに及ぶ大改修が行われ、広大な城郭が築かれる事となった。
元和3年(1617年)には、池田氏は跡を継いだ光政が幼少であり、重要地を任せるには不安である事を理由に因幡鳥取へ転封させられ、伊勢桑名から本多忠政が15万石で入城した。元和4年(1618年)には千姫が本多忠刻に嫁いだのを機に西の丸が整備され、全容がほぼ完成した。
要衝姫路の藩主は親藩および譜代大名が務めたが、本多家の後は奥平松平家、越前松平家、榊原家、再度越前松平家、再度本多家、再度榊原家、再々度越前松平家とめまぐるしく入れ替わる。寛延2年(1749年)上野前橋城より酒井氏が入城してようやく藩主家が安定する。しかし、豪壮な姫路城は石高15万石の姫路藩にとっては非常な重荷であり、譜代故の幕府要職も相まって藩の経済を圧迫していた。
姫路城は江戸時代にもたびたび修理が行われてきたが、当時の技術では天守の重量に礎石が耐えられず沈み込んでいくのを食い止める事は難しかった。加えて柱や梁などの変形も激しく、俗謡に『東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか』などと歌われるありさまであった。
幕末期、鳥羽・伏見の戦いにあって姫路城主酒井忠惇は老中として幕府方に属し将軍徳川慶喜と共にあったため、姫路藩も朝敵とされ姫路城は岡山藩と龍野藩の兵1,500人に包囲された。この時、輝政の子孫・池田茂政の率いる岡山藩の部隊が姫路城に向けて数発空砲で威嚇砲撃を行っている。その中に実弾も混じっており、このうち一発が城南西の福中門に命中している。官軍の姫路城総攻撃は不可避と思われたが、摂津国兵庫津の勤王豪商・北風正造が15万両に及ぶ私財を官軍に献上し、それを食い止めた。この間に藩主の留守を預かる家老達は最終的に開城を決定、城明け渡しで官軍と和睦する。こうして姫路城を舞台とした攻防戦は回避され、後年の世界遺産は焼失を逃れた。
明治4年(1871年)に廃藩置県がおこなわれ、さらに1873年(明治6年)の廃城令によって日本の城の多くがもはや不要であるとして破却された。姫路城は競売に付され、城下の米田町に住む個人、神戸某が23円50銭で落札した。城の瓦を売るのが目的であったという。しかし、解体費用がかかりすぎるとの理由で結局そのままにされ、権利も消滅した。その後1927年(昭和2年)、その個人の息子が、姫路城の所有権を主張して訴訟を起こそうとしたと報じた新聞があったが、別の新聞が後日取材したところでは事実無根だという話であったという。
城跡は陣地として好適な場所であった事から、陸軍の部隊は城跡に配置される例が多かった。1874年(明治7年)には姫路城内に歩兵第十連隊が設置された。この際、本城などの三の丸の建物や武蔵野御殿、向屋敷などの数多くの建物が取り壊された。さらに1882年(明治15年)には失火で備前丸を焼失している。
一方で、明治時代初頭の大変革が一段落付いた1877年(明治10年)頃には、日本の城郭を保存しようという動きが見られるようになった。陸軍において建築・修繕を担当していた中村重遠(しげとお)大佐は、1878年(明治11年)に陸軍卿山縣有朋に名古屋城および姫路城の保存を太政官に上申するよう願い出て、ようやく姫路城の修復は第一歩を踏み出した。姫路城の菱の門内側には中村大佐の顕彰碑が残る。だが、肝心の予算はなかなか下りず、陸軍の予算からどうにか捻出された保存費は要求額の半分にも満たないものであった。これによってどうにか応急的な修理を施したもののなおも腐朽は進む一方であり、城下各地の有志達の衆議院への陳情によってようやく1910年(明治43年)、国費9万3千円が支給されて「明治の大修理」が行われた。これも天守の傾きを修正するには費用が足りず、傾きが進行するのを食い止めるに留まった。その後、1919年(大正8年)にも陸軍省が西の丸を修理している。後に第十連隊は岡山へ移転した。
昭和の大修理について触れる前に、姫路城が「不戦の城」とも呼ばれる所以について記す。姫路城は幕末と太平洋戦争の二度の戦禍を免れた事から「不戦の城」と呼ばれる事がある。しかし、実際にはいずれにおいても戦火が間近に近づく危機にさらされている。幕末の危機は先に述べた通りである。
太平洋戦争にあって姫路城の白壁は非常に目立ち、又、陸軍の部隊が置かれていた姫路はアメリカ軍の爆撃対象とされることは明らかであったため、黒く染めた網で城の主要な部分を覆い隠す事とした。しかし、1945年(昭和20年)7月3日の姫路大空襲で姫路城下は灰燼と帰する。城内にも着弾するが本城跡に有った中学校校舎のみが焼失しただけで、西の丸に着弾した2発は不発あるいはすぐに消火された。また大天守にも焼夷弾が直撃したものの、不発だった(2006年7月23日付神戸新聞記事より。当時、不発弾処理にあたった元士官の証言で明らかになった)など、城本体は奇跡的に炎上を免れた(姫路城は貴重な文化財なので爆撃対象とはされなかったという俗説があるが、日本の他の都市の城郭-例えば名古屋城やドイツにおける無差別爆撃では歴史的建造物も容赦なく破壊されたことから、そのような考えはなかったとするのが一般的である(ラングドン・ウォーナーの項、参照)。また、当時のB-29搭乗員は『レーダーから見れば城も輝く点の一つであり、それを歴史的建造物と認識するのは難しい』と回顧している)。翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路城を見て、城下の人々は涙したという。
1928年(昭和3年)に姫路城は史跡指定され、文部省の管理となる(実際の管理は姫路市)。次いで1931年(昭和6年) 天守閣を国宝指定。後に渡櫓等も国宝指定される。ただしこの時点での「国宝」は「旧国宝」と呼ばれるもので、1950年施行の文化財保護法における重要文化財に相当するものである。
昭和の大修理は1934年(昭和9年)、西の丸の渡櫓が豪雨のため石垣もろとも崩壊したのを契機に開始された。全ての建物を一回解体してから部材を修復し、再度組み立て直すという方法がとられる事となった。先に天守以外の建物を手がける事としたが、1944年(昭和19年)太平洋戦争の戦局悪化により中断を余儀なくされる。幸い先述したように空襲の危機を免れ、1950年(昭和25年)に大修理は再開される。1955年(昭和30年)までに天守以外の修理を完了した。
1956年(昭和31年)より天守大修理に着手する事となる。特に天守においては、その全体に巨大な素屋根を掛けて解体・修復工事が行われた。これによって構造物に書き込まれていた様々な文章が発見され、姫路城の研究に大きく役立てられた。一方で基礎は礎石を撤去し(三の丸広場北方にそのままの配置で移動された)、新たに十弁式定盤基礎と称する鉄筋コンクリート製の強固な基礎構造物が姫山の岩盤上に直接構築された。礎石のままでは天守の重量を支えきれないためである。
以前の西心柱(西大柱)天守を解体した時、これを支えていた東西の「心柱」のうち、西の心柱が芯から腐って再利用不能であると判断された。ただちにこれに替わる巨木探しが始まった。兵庫県神崎郡市川町の笠形神社境内の檜が検討されたが、上部に曲がりと根本に腐っている疑いとがあって保留された。1959年になってようやく、岐阜県恵那郡付知町(現中津川市)の山中に最適な檜が発見された。ところが、これは切り出す途中に折れてしまい、その近くで発見されたもう一本は森林鉄道を用いて運搬する途中で、そのあまりの長さ故に折れてしまう。窮余の策として二本目の根本側と笠形神社の檜とを継ぎ合わせて使用される事となった。実は本来の西心柱も二本継ぎで作られており、西心柱は構造上中央部で分割しないと立ち上げ時に先に組み上げられた東心柱に干渉し、狭い作業空間内で正しく組み上げられないのであった。これらの檜は姫路市民総出で大手前通りを祝い引きされ、姫路城内へと運び込まれた。
天守の修理に当たっては、他に重量低減のため特に工夫を加えて焼成された軽量瓦や、耐震補強のための金具類が新たに使用されている。一方で石垣などそのままで差し支えないと判断されたものはほとんど手を加えられていない。天守の修理は1964年(昭和39年)竣工した。
天守の工事費は約5億3,000万円であった。戦前修理分の費用を物価換算して、戦後の費用と合計すれば約10億円(1964年当時の価格)に相当すると考えられている。
1993年(平成5年)、世界遺産(文化遺産)に登録された。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(59番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
<平成の大修理(予定)>
2009年度着工〜2011年度竣工予定。工事費は10億円以上とされる。上記の「昭和の大修理」で50年は持つとされていたが漆喰や木材の劣化が進んだため、大天守の漆喰の塗り替え・瓦の葺き替え・耐震補強を重点に予定されている。工期中は修復作業を見学出来る「見せる修復」も検討中とのこと。(参考記事:ウキペディア)

